塩田平という聖地。

長野県上田市の南西部に広がる塩田平。雨の少ない気候から、人々は水源となる山の神々に祈りを捧げ暮らしてきました。祈りは文化となり、今も地域に根づいています。

信州の鎌倉
塩田平。

塩田平は古くから聖地とされてきた場所。主に鎌倉時代から室町時代にかけてたくさんの神社仏閣が建てられ、中国などから多くの学僧が訪れてきました。国宝や重要文化財、県宝に指定されているものも多く、風光明媚な景観も相まって「信州の鎌倉」として知られています。

日本遺産に認定された、
塩田平のレイライン。

日本遺産に認定されている塩田平のストーリーの骨子にあるのが、レイラインと呼ばれる光の線。大日如来(太陽)を安置する信濃国分寺、国土・大地をご神体とする生島足島神社、そして信州最古の温泉地・別所。3つの聖地は一本の直線上、レイラインに位置します。

一部の駅にレイラインの方向を示す看板があります。あわせてご覧ください。

日本遺産・構成文化財一覧

  1. 安楽寺八角三重塔あんらくじはっかくさんじゅうのとう

    国宝

    日本で唯一の現存する木造八角三重塔で、長野県の国宝第一号。創建は1290年代とされている。鎌倉時代に宋から禅宗とともに伝わってきた禅宗様という建築様式で、一層に裳階(もこし)と呼ばれるひさしをつけた珍しい形式。かつては四重塔とされていたが、現在では一番下の屋根は裳階と解釈されている。禅宗寺院であるにも関わらず一層の内部に大日如来像が安置され、太陽信仰との関連が感じられる。屋根の下の華やかな木組みなど、あちこちに施された巧みな意匠と、禅宗様という珍しい形式で建てられたこの塔は、奈良の西大寺や京都の法勝寺などの八角塔が失われた現在、とても貴重な存在となっている。

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  2. 木造惟仙和尚坐像 / 木造恵仁和尚坐像もくぞうい せんおしょうざぞう / もくぞうえにんおしょうざぞう

    国重文

    安楽寺の境内の伝芳堂に、惟仙(いせん)と恵仁(えにん)という二人の僧侶の等身大の椅像(いぞう)「頂相」が並んで祀られている。どちらも没後、鎌倉時代に弟子たちが造立したもので、安楽寺が「信州の学海」として修行僧を多数輩出していたことがうかがえる。惟仙は樵谷と号した禅僧で、鎌倉時代の中期、宋に渡って修学した後、安楽寺を開いたとされている。恵仁は幼牛と号し、惟仙にしたがって来朝して、安楽寺二代となった中国僧。作者名はないが作風が似ているため、どちらも同じ作者と見られている。

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  3. 常楽寺本堂じょうらくじほんどう

    市建造物

    多くの青年僧が学んだ「信州の学海」を支えた寺院として名高い常楽寺。本堂は寄棟造(よせむねづくり)、茅葺の建物で、江戸時代中期後半の建築とされている。間取りは建築時からほとんど改装されていない。また、間口が約18mあり、県内の江戸中期後半の天台真言系本堂として屈指の規模をもっている。彫刻的な要素が少なめの意匠は、江戸中期の本堂によく見られるもので、当時の特色が現れている。本尊は大日如来の五つの智慧を表す五智如来のひとつである妙観察智阿弥陀如来(みょうかんざっちみだにょらい)。

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  4. 常楽寺石造多宝塔じょうらくじせきぞうたほうとう

    国重文

    弘長2年(1262)につくられた石造の多宝塔。多宝塔とは大日如来を具現化したものとされ、ここにも太陽信仰の一端を垣間見ることができる。塔が建てられている場所は、北向観音の出現地といわれ、常楽寺境内でもっとも神聖な場所とされる。「別所の東北にある山の麓あたりの地の底が突然ゆれ動いて、大きな火の口があき、そこから紫色の煙がたちのぼり、南方へたなびいて今の北内観音堂の桂の木に止まった。その先には金色をした千手観音のお姿が見えた」と伝えられ、その火口がこの場所。石造多宝塔の状態が良いものは全国的にも少なく、重要文化財に指定されているのは、この常楽寺塔を含めてわずか二つのみ。

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  5. 北向観音堂きたむきかんのんどう

    平安時代初期に慈覚大師円仁が、常楽寺石造多宝塔があるところから現れた千手観音を祀るために開いたといわれている。本堂が北向きという例は全国でもほとんどない。寿永元年(1182)には源平争乱の中、八角三重塔と石造多宝塔を残して全て焼失してしまうが、建長4年(1252)、塩田陸奥守北条国時により再興された。かつて参道の脇に長楽寺(常楽寺、安楽寺とともに天台宗の「別所三楽寺」のひとつ)があったが、現在は常楽寺を本坊としている。手水舎には境内から湧出している温泉が使われていて、湯で手を清めることができる。

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  6. 善光寺地震絵馬ぜんこうじじしんえま

    尾張の市之助が北向観音で厄除札を受けた後、善光寺御開帳に向かった。その際に門前宿で弘化4年(1847)の善光寺地震に遭遇し、北向観音で受けたお札が身代わりになってくれたおかげで難を逃れたという伝説を描いている。そのお礼に奉納したのがこの絵馬。北向観音の御光りに導かれて避難して行く様子が見られる。

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  7. 愛染カツラあいぜんかつら

    市天然記念物

    神仏が姿を現した「影向の桂」といわれる樹齢1200年の霊木で、目通り幹囲5.8mの太さがある。ハート形の葉が珍しく、今でも縁結びの霊木として老若男女に親しまれている。故川口松太郎原作の日活映画『愛染かつら』のモデルとしても有名。別所温泉には他に、北向観音の夫婦杉〈夫婦円満〉、薬師堂のねじり紅葉〈素直な心〉、常楽寺の御船の松〈極楽浄土に導く〉、安楽寺の高野槇〈希望〉の霊木があり、「別所五木」と呼ばれて親しまれている。

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  8. 舞田の石造五輪塔まいたのせきぞうごりんとう

    県宝

    塩田平に多数ある石造文化財の中でもひときわ目立つ、高さ212㎝の五輪塔。各部材の様式などからみて、鎌倉初期にたてられたと推定されている。五輪塔は、はじめ大日如来を尊ぶことから造られたといい、その後、身分が高い人の供養塔として用いられるようになった。下から地輪、水輪、火輪、風輪、空輪と呼ばれる形の違う5つの石が積み重ねられている。水輪には梵字の「バン」(大日如来)が刻まれている。文治2年(1186)この地に金王庵を創建した渋谷土佐入道昌順の墓塔と伝えられている。

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  9. 前山寺三重塔ぜんさんじさんじゅうのとう

    国重文

    前山寺は塩田城の祈願寺と伝えられ、本尊は大日如来。真言宗の「信濃の四談林」のひとつで、三楽寺とともに「信州の学海」としての役割を担った。三重塔は室町時代初期につくられたとされている。別名「未完成の完成塔」とも呼ばれていて、二層・三層目の匂欄(手すり)が未完成にも関わらず、何の不調和感もなく素晴らしい出来であることから、そう賞賛されている。また一層目の西南の隅柱(すみばしら)の上部には、左方につき出した木鼻と呼ばれる彫刻があり、それを象の鼻に見立てて目が彫ってあるのを見ることができる。

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  10. ちがい石とその産地ちがいいしとそのさんち

    市天然記念物

    二つの中性長石がX形に交わって結晶化した鉱物で、全国でも弘法山でしか産出しない。「誓い石」とも呼ばれ、弘法大師空海が「大切に保持すれば災厄から免れさせる」ことを誓ったという伝説がある。

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  11. 西光寺阿弥陀堂さいこうじあみだどう

    県宝

    弘法大師空海が大日如来像・阿弥陀如来像を彫刻し、小堂を建てたのが西光寺のはじまり。鎌倉時代に塩田北条氏が開基となり、栃木県足利市から実勝和尚を招いて開山した。阿弥陀堂は室町後期の寄棟造(よせむねづくり)の建物で、後に大きく改造されていたが、平成元年(1989年)に完成した修理工事で当初の形式に復元。参道は、元は東から阿弥陀堂に突き当たるようになっていたといわれる。飾らない檜皮葺のシルエットが美しい。

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  12. 中禅寺薬師堂ちゅうぜんじやくしどう

    国重文

    中部日本最古の木造建築で、約800年前の建物と推定されている。これは塩田平に仏教文化が根付いた時期でもある。真上から見ると屋根が真四角に見える宝形造(ほうぎょうづくり)で建てられている。薬師如来像を祀る薬師堂だが、「方三間(ほうさんげん)の阿弥陀堂」という形式の珍しい建物。方三間とは、東西南北のどちらから見ても柱が四本立っていて、間(柱と柱の間)が三つあることをいう。

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  13. 中禅寺木造薬師如来坐像ちゅうぜんじもくぞうやくしにょらいざぞう

    国重文

    薬師堂の本尊で、平安時代後期によく見られた様式、定朝様(じょうちょうよう)に、新しく流行し始めていた鎌倉様式を取り入れた、いわゆる「藤末鎌初(とうまつけんしょ)」の仏像。表情やからだ全体の表現は、穏やかで丸味を帯びた定朝様でありながら、肩や膝の張りが強く、法衣の襞(ひだ)の彫りもかなり深いところに、鎌倉様式を見ることができる。台座には流鏑馬を描いた墨書戯画が見られ、塩田平に鎌倉から流入した仏教文化の影響を示している。

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  14. 中禅寺木造金剛力士像ちゅうぜんじもくぞうこんごうりきしぞう

    県宝

    薬師堂仁王門に安置された、信州最古の金剛力士像。寄木造で高さ207㎝のやや小振りの像。制作時期は薬師堂本尊とほぼ同じとみられ、平安時代末につくられたとされている。太い縄状の腰帯などに、当時の様式が表れている。この像から、当時、中禅寺が京都の新しい様式を取り入れ、伽藍(がらん)を整えていたことが想像できる。

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  15. 前山塩野神社拝殿及び本殿まえやましおのじんじゃはいでんおよびほんでん

    市建造物

    平安時代初期の法典「延喜式」などに載っている古社。独鈷山の北麓に鎮座し、かつては山上の鷲岩という巨岩に祀られていた。その後人里に近い現在の場所に移されたといわれている。拝殿は寛保3年(1743)のものとみられ、二階建ての楼門造りという珍しい建物。また、本殿は一間社流れ造り(いっけんしゃながれ)の様式で、見事な龍の彫刻を見ることができる。社殿の南側には神が降る岩「磐座(いわくら)」があり、境内には塩田平を潤す塩野川が流れる。どこか異空間に迷い込んだような、神秘的な空間。

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  16. 法住寺虚空蔵堂ほうじゅうじこくぞうどう

    国重文

    平安時代に創建されたと伝えられる天台宗のお寺。独鈷山を主峰とする虚空蔵信仰の山麓寺院(南麓)として捉えられる。古くから地域信仰の中心となってきた。堂全体は和様で造られているが、屋根に取り付けられた彫刻・懸魚(げぎょ)などには禅宗様の要素も見られ、室町時代中頃に造られた建物と考えられる。厨子もお堂と同時代のものと推定され、方一間入母屋造(ほういっけんいりもやづくり)という禅宗様独特の方式で造られている。中には虚空蔵菩薩坐像(室町時代・寄木造・像高45.4㎝)が安置されている。

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  17. 別所温泉の岳の幟行事べっしょおんせんのたけののぼりぎょうじ

    国選択無形民俗文化財

    嘉永2年(1849)「善光寺道名所図会」にも記される、古くからある雨乞いのまつり。永正元年(1504)、大干ばつに苦しんだ農民が、雨の神様に貴重な反物をささげて祈ったことが始まりとされる。本来は7月15日が祭日だが、現在はそれに近い日曜日に行う。天に昇る龍を象った幟は、長さ約6mの青竹竿に赤・青・黄などの色鮮やかな布が取り付けられたもの。当日は夫神岳の頂上に祀られた「九頭龍神」の祠で神事を行った後、降り龍の幟を先頭に約70本もの幟が山を下る。麓で別所神社の神主総代、さらに三頭獅子とささら踊りの一行と合流して温泉街を一巡する。平成10年(1998)に開催された長野冬季オリンピックの閉会式会場でも披露された。

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  18. 別所神社本殿べっしょじんじゃほんでん

    市建造物

    別所温泉の北方、塩田平をはじめ、浅間連峰が望める小高い丘にある産土神。岳の幟行事の終着地になる場所。建物は天明8年(1788)のものと思われ、一間社隅木入春日造(いっけんしゃすみきいりかすがづくり)でつくられている。安楽寺の山門など、塩田平の寺社建築に多くの優れた作品を残した、上田房山の末野一族の手によるもの。また、境内神楽殿や、本殿の背に祀られる縁結びの神を祀った「本朝縁結大神」なども貴重な文化財。

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  19. 鞍が淵と蛇骨石くらがふちとじゃこついし

    鞍が淵という名前は、独鈷山から落下した二つの大岩が折り重なって鞍のように見えることが由来とされている。岩の間を流れる産川が造る淵には、かつて大蛇が住んでいたという。その周辺で採取される蛇骨石(灰沸石)は独鈷山の岩石に含まれる鉱物で、色と形がヘビの骨に似ていることからこう呼ばれている。産川は、大蛇を母とする男の子の伝説「小泉小太郎伝説」で、小太郎が産み落とされた場所。この伝説から大蛇は水の神で、産川の源である独鈷山が水神として崇められていたことがうかがえる。小泉小太郎伝説は、松谷みよ子の「竜の子太郎」のモデルとなった。

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  20. 千駄焚き・百八手せんだだき・ひゃくはって

    塩田平で昔から行われていた雨乞いの習俗。日照りの年に、山頂やため池の土手で、松明を点したり、藁の束などに火をつけたりし、「雨降らせタンマイナ」と唱える。祈りの方法は集落やため池ごとに若干の違いがある。

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  21. 奈良尾石造大姥坐像ならおせきぞうおおばざぞう

    市彫刻

    大かんばつで苦しんだ村人が丸子町の境にある富士嶽で雨乞いをしたところ、みるみるうちに雨が降ったお礼として、寛正7年(1466)に造られたとされる石像。背中にはつくられたと思われる年号が彫ってある。迫力のある形相だが、地元では「大姥(おおば)さま」と呼ばれて親しまれている。その後、雨への祈りは、この石像に願掛けをした千駄焚きや、石像を池の中に放り込む行事などに変化した。祈りの言葉はここでも「雨降らせタンマイナ」だ。

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  22. 保野の祇園祭ほやのぎおんさい

    市指定無形民俗文化財

    保野の集落は、中世には月3回定期的に開かれた三斎市(さんさいち)が立った塩田平の経済を支えた場所。保野塩野神社の祇園祭は、起源は約450年前といわれている。大凶作で祭りを行わなかった年、疫病が大流行したため、その後は凶作でも休まずに続けてきた。7月1日のしめ張りの儀式から7月第3日曜の本祭り終了まで、古いしきたりが現在まで受け継がれている。神輿が地区内を練り歩く御神輿渡御行列や早乙女の揃い姿で踊るささら子の踊り、天狗と雄獅子2体、雌獅子1体による獅子踊りなどが行われる。

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  23. 信濃国分寺跡しなのこくぶんじあと

    国史跡

    天平13年(741)の「国分寺建立の詔」により信濃国分寺は上田に造られることとなり、770年頃には伽藍が整備されたと推定される。寺伝によると、承平8年(938)の平将門と平貞盛の戦いの際に焼失したとある。昭和38年(1963)から46年にかけて行われた発掘調査では、全国的にも稀な僧寺と尼寺が並ぶ伽藍配置や、瓦・什器などの遺物が発見された。さらに、10世紀頃の衰退の痕跡も確認できるなど、大きな成果を残した。この結果を元に現在は史跡公園として整備されている。寺域の東北に位置する高台に鎮座する国分神社が、レイラインの起点となる。

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  24. 信濃国分寺本堂しなのこくぶんじほんどう

    県宝

    天台宗の寺院で、本堂は薬師堂と呼ばれている。現在の信濃国分寺の境内は、天平の伽藍の北側の一段高い場所に、かつての僧寺と主軸線を合わせて整備されている。万延元年(1860)に竣工し、彫工は地元上沢村の竹内八十吉。見事な龍や鳳凰の彫刻を見ることができる。

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  25. 信濃国分寺三重塔しなのこくぶんじさんじゅうのとう

    国重文

    寺伝では、建久8年(1197)に源頼朝が善光寺参詣の帰り道、寺の衰退を憂いて塔の復興を命じたという。建築様式から室町時代に建てられたものと推定され、和様の外観は堂々と落ち着いた雰囲気。一層の大日如来が安置されている仏壇の鏡天井を囲む「如意頭文」は禅宗様の建物で用いられるもので、内部は赤や緑の顔料で鮮やかに塗られていた。別所温泉の安楽寺八角三重塔とともに大日如来が安置されたふたつの塔は、レイラインの発着点を示す象徴とされたのかもしれない。

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  26. 信濃国分寺石造多宝塔しなのこくぶんじせきぞうたほうとう

    市指定

    高さ152㎝と常楽寺のものに比べるとやや小振りだが、各部の様式・手法などから鎌倉期の多宝塔とされる。常楽寺のものがレイラインの終着点に置かれた塔だとすると、こちらは起点とされた塔なのかもしれない。屋根や塔身にあるくぼみは、叩いて粉にして飲むと病気が治る、お守りにすると良いという信仰から人々に削られた痕跡。

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  27. 牛頭天王祭文ごずてんのうさいもん

    市指定

    毎年1月8日、信濃国分寺八日堂縁日でわけられる「蘇民将来符(そみんしょうらいふ)」のいわれが記されている古文書。この「祭文」の写しは全国で4通確認されているが、文明12年(1480)に書写された国分寺のものが最古と判明している。牛頭天王は薬師如来が姿を現したものといわれ、京都の八坂神社などで行われる祇園祭の祭神。厄病除けの神として信仰され、やがて息災延命、七難即滅などの御利益が付け加わりながら長く信仰されてきた。

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  28. 上田市八日堂の蘇民将来符頒布習俗うえだしようかどうのそみんしょうらいふはんぷしゅうぞく

    国選択無形民俗文化財

    泥柳(どろやなぎ)の木を手彫りした、六角錐形の護符厄除けのお守り。家の戸口に掛けたり、神棚に供えたりする。室町時代から制作されてきたといわれ、形状や模様の一つひとつが意味をもつ。制作するのは「蘇民講(そみんこう)」とよばれる江戸時代から信濃国分寺門前に家を構える古い家系の人々。まず12月1日に寺に集まり、木材から護符を蘇民包丁で切り出す「蘇民切り」を行う。寺でわけるものには、住職が大福・長者・蘇民・将来・子孫・人也の文字と魔除けの紋様を、墨と朱で六面に交互に描く。また、蘇民講は、文字とともに、家それぞれオリジナルの七福神の絵姿を描く。蘇民将来信仰は全国に見られるが、木製の護符は少ない。また制作過程も地域ならではのもの。

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  29. 八日堂縁日図ようかどうえんにちず

    市指定

    描かれている信濃国分寺本堂の形状などから、江戸時代中期前半に描かれたものと推定される。当時の参詣風景や人々の様子が細かく描かれており、風俗史料として貴重な一枚。「蘇民将来符」をわける姿や、農業に必要な種子や農具、生活必需品、浮世絵などの嗜好品が売られている様子がうかがえる。当時の人々の暮らしと祈りの一端を垣間見ることができる。

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  30. 泥宮どろみや

    泥宮は、その名が表すように、泥(大地)を御神体とするお宮。泥は稲作の元となるものでもある。大地を御神体にしているのは、生島足島神社も同じ。一説によると、生島足島神社は泥宮から遷ったともわれている。かつては生島足島神社の西鳥居と泥宮は、まっすぐな一本の道で繋がっていたといい、このふたつの神社に深い関係があることを示す。

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  31. 生島足島神社本殿内殿いくしまたるしまじんじゃほんでんないでん

    県宝

    平安時代の初期にまとめられた法典「延喜式」に載る古社で、生島大神と足島大神をお祀りしている。御神体は「大地」で、日本列島の真ん中に鎮座する神とされている。夏至には太陽が東の鳥居の真ん中から上がり、冬至には西の鳥居の真ん中に沈むように設計されている。まさに「太陽」と「大地」を結ぶ神社。生島大神と足島大神を祀る神社は全国的にも珍しく、近畿地方を中心に数社しかなく、東日本では皇居内宮中三殿と、この生島足島神社のみ。歴史的にも武田信玄や真田氏など、歴代の上田藩主の手厚い加護を受けた由緒ある場所。境内には夫婦欅と呼ばれる樹齢800年を超えると推定される大木があり、良縁子宝などで訪れる人も多い。

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  32. 生島足島神社摂社諏訪社本殿いくしまたるしまじんじゃせっしゃすわしゃほんでん

    市指定

    本殿と向き合うように建っている摂社諏訪社。棟札から、慶長15年(1610)に藩主・真田信之が建てたことがわかっている。諏訪神を祭神とし、雨神や農耕神ともされている。神格が龍や蛇、神使は蛇。そのため蛙が禁忌の動物で、本殿との間にある神池では毎年1月15日に蛙狩神事が行われる。境内には大蛇が住んでいて、神池には蛙はいないとされるため。また神池は日によって色が違って見えるという。

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  33. 生島足島神社文書いくしまたるしまじんじゃもんじょ

    国重文

    武田信玄武将の83通もの起請文(神仏に誓約する言葉を記した文書)や願文、真田信幸の寄進状(寄進物の品目・種子などを記した文書)など11通、合計94通からなる古文書群。信玄が配下の武将に、裏切らないことを誓わせた起請文や、越後の上杉謙信との戦いにあたって勝利を祈願した願文も残っており、信濃攻略を果たした信玄が上杉との本格決戦に向けて、神の加護を得ようとした心中を感じられる史料となっている。

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  34. 長福寺銅造菩薩立像ちょうふくじどうぞうぼさつりゅうぞう

    国重文

    長福寺「信州夢殿」の本尊として安置されている。アルカイックスマイル(古代の微笑)を特徴とする、像高36.7㎝の小金銅仏。7世紀後半の白鳳時代の作品と考えられる。笑みをたたえた柔和な表情は、小さな子どもの表情と同じことから、このような顔のつくりを童形(どうぎょう)という。もとは上高井郡小布施町の旧家に伝わるものだったが、昭和13年(1938)に長福寺に移された。

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  35. 別所線の鉄道施設べっしょせんのてつどうしせつ

    養蚕が盛んだった上田を支えた鉄道網のうち、唯一現役なのが別所線。上田と別所温泉を結ぶこの路線は大正10年(1921)に開通した。電車が上田駅を発つと間もなく真っ赤な鉄橋を通って千曲川を渡る。この千曲川橋梁は、大正13年(1924)の建設で、橋長は224m。橋桁はプラットトラス5連からなっていて、一番端の斜材(コリションストラット)を持っているのが特徴。また、駅舎には中塩田駅や別所温泉駅など、近代の趣きを残す建物も多い。別所線の上田駅から別所温泉駅まで11.6kmの軌道は、下之郷駅から大きく西に曲がっていく。まるでレイラインに沿って夫神岳に向かっているように見える。

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  36. 塩田平のため池群しおだだいらのためいけぐん

    雨の少ない塩田平で、稲作に欠かせないのが各地に点在するため池。古代から築造は進められてきたと考えられるが、1622~1706年が最も盛んで、最盛期には300以上もあったとされている。小規模なため池を含めた現在の総数は明らかではないが、塩田地域で名称や貯水量等が把握されているものだけでも41を数える。舌喰池は池の築造時に人柱となった娘が舌をかみ身を投げた伝承が伝わり、池の名ともなっている。かつては鯉の養殖が行われていた。

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